橋に興味をもったのは若戸大橋と関門橋があったから
今回の取材は、しわもたるみもないピチピチのお肌がうらやましい、葉玉洋介くんです。柔和な表情で、ウィットの効いたフレーズをくりだしてくれました。曇天のち大雨の中、居心地の良いカフェでビールを飲みながら、葉玉くんの今までに迫ります。
※もちろん取材はため口で行われましたが、記事にするにあたって口調を変更しています。ご了承ください。
葉玉洋介くん
八高時代は1年2組、2年1組、3年1組と男クラ暮らしが長い。帰宅部だったが、2年生で生徒会入りし、厚生委員長を担当。熊本大学に現役で進学し、卒業後は建設コンサルタントに就職。現在は地方公務員として橋の補修などを担当している。埼玉県在住。
学校の行事前は生徒会室で毎日準備をしていました
―葉玉君の高校時代の思い出を教えてください。
僕は3年間、無遅刻・無欠席。卒業式の日に皆勤賞の記念品として文鎮をもらいました。八高までは西鉄バスの43番1本で、毎日始発の6時のバスに乗って、7:15に学校着。毎朝、目覚まし時計ではまったく起きられず、3つ上の姉が「目覚ましがうるさい!!」って怒鳴り込んで、起こされていました。1時間のバス通学中は英単語など勉強していました。でも、朝が早すぎて授業中寝ていたり、夜も家の机で寝てしまったり…ダメな僕でした。
そうそう、一度帰りのバスで完全に寝てしまって、運転手さんも終点で僕の存在に気がつかなかったのでしょう。目が覚めたら、小嶺営業所に駐車された真っ暗なバスの中にいました(笑)。携帯電話もない時代だったので、窓を開けて大声で助けを求めました。
―よっぽど熟睡していたのですね(笑)。ところで葉玉くんは生徒会ですよね。どんな経緯で生徒会に入ったのですか。
僕は厚生委員長をしました。生徒会には他に体育委員、文化委員、図書委員、風紀委員があったと思います。1年生のときの委員の中から、2年になると生徒会に入る流れがあったのだと思いますが、僕は好きな女の子目当てに生徒会に潜り込みました。厚生委員は保健便りを出すというミッションがあったのですが、僕は1回も出さずじまい。ちなみに、風紀委員長だったYくんはリーゼントで風紀を乱していました(笑)。場所は忘れたけど、生徒会室という小部屋があって、体育祭や文化祭などの行事の前は、毎日集まって準備をして、楽しかったですね。今でも連絡とるのは、生徒会のメンバーが多いです。
テニスに明け暮れて、留年
―高校卒業後、葉玉君は熊本大に進学しましたよね。
はい、工学部の土木環境工学科でした。今まで一度も運動部に所属したことがなかったのに、大学では、体育会硬式庭球部に入部。ガチな部活、勝つためのテニス、スポ根のテニス…、とてもハードでした。夏の大会直前には1週間の合宿があるのですが、そこでボロボロになって、試合でもボロボロ(笑)。そんなテニス部一色のキャンパスライフでした。
実はテニス部も土木も留年が多くて、僕も留年してしまいました。「1年くらいいいかな」とあきらめて、追試も受けなかったのですが、親には「頑張ったけど」と嘘をつきました。姉は社会人になっていたし甘えもあったかな。二度目の3年生は必修の3コマしかなく時間はたっぷりあったので、授業のない日は2時間くらいかけて新聞を隅々まで読んでいました。ていうかやばいね、追試受けてないって親にばれてしまう、まぁ時効かな(笑)。
その時期はNHKニュースのカメラマン補助のバイトをしました。ちょうど政権交代のタイミング。細川護熙氏の出身地なので熊本は盛り上がっていましたね。投票日は選挙事務所にバンザイ取材にいったのですが、他局の中継にひょっこり映り込んで全国デビューして怒られました(笑)。また街頭インタビューは企画段階で既に欲しい声があり、それ目当てにインタビューするということを知り、NHKといえど鵜呑みにしちゃダメだと思いました。
―充実の大学生活だったのですね(笑)。ちょうど就職氷河でしたが、就職活動はどうでしたか。
熊大土木は先輩ががんばってくれていたので、あのご時世にもかかわらず、学生数よりも多い求人がありました。バブル時代にゼネコンが人材を採りすぎたため、建設コンサルタントは慢性的な人手不足が続いていたそうです。先生が「どこを受けたい?」という形で割り振ってくれ、僕は希望の建設コンサルタントを受けて、あっさりと内定が決まりました。
若戸大橋と関門橋を見て、橋の仕事がしたいと思った
―うらやましいほど、恵まれた就職活動ですね。葉玉君は就職で上京したのですね。
配属は東京支社で、12名の同期がいました。95年4月の入社でしたが、直前の1月に阪神淡路大震災があり、道路橋の耐震基準が大幅に改定されたのです。入社すぐに耐震補強や修正設計を担当しました。高架橋の橋脚補強設計では、100基以上の微妙に寸法が違う図面を描きまくったかな。会社も最高益を記録するほど忙しくて、2年間ぐらいはアホみたいに働きましたね。だけど修正設計で、元の設計をなぞりながら新しい耐震基準で修正することで、全体の流れを理解できた経験は、その後おおいに役立ちました。
―新人時代に鍛えられた経験はキャリアにいい影響がありますよね。ところで建設コンサルタントはどんな役割なのですか。
国交省や地方自治体が、道路など公共工事を計画したら、まず建設コンサルタントが設計業務を請け負います。工事発注に必要な図面作成、概算工事費算出など行います。その設計結果をもとに役所は工事を発注し、建設会社が工事をします。橋梁工事では、地中部分の基礎工事、橋台・橋脚の下部工事、その上の橋桁など上部工事に分かれます。上部工事は各社の特許やノウハウで変更されることも多いのですが、主に担当した基礎工・下部工は、設計どおりに現場に出来上がることが多くて、やりがいも大きかったです。
―そんな仕組みだったんですね。ところで橋に興味をもったきっかけは何ですか。
それはもう、若戸大橋と関門橋です。あんなにでっかくかっこいい橋を見て育ったので「橋っていいな、橋の仕事やりたいな」と憧れて、土木への進学につながりました。 東京で2年半、仙台に転勤して5年、また東京に戻って、この21年間は橋の設計一筋。仕事内容もほとんど変わっていません。後輩が少なかったので、部下も持たず気楽でしたし、人間関係も良かったので、長く働けました。41才で遅ればせながら、建設部門の技術士の資格も取得しました。
背水の陣での公務員試験
―葉玉君は地方公務員へと転職しましたね。何かきっかけはあったのですか。
会社にいろんな不満がでてきました。自分に割り振られる仕事内容とか上司・同僚の仕事結果とか会社の体制とか。だけどその理由をたどっていくと、必要な資格取得に真剣に取り組んでいなかったなど自業自得にも行き着いたり。
そして転職を視野に調べる中で、公務員の中途募集を知りました。こっち側を知ってあっち側の仕事すると双方にいい仕事ができるかもと、応募しました。直後に東北支店への転勤命令がありましたが、僕は退職届を提出しました。その一週間後が公務員試験でしたから、背水の陣です。ただ資格試験の勉強で論文を書き慣れていたこともあり、結果は無事合格。44歳で入庁を果たしました。
―辞めてから公務員試験を受けるというのは、なかなかの勇気ですね。公務員になってからはどうでしたか。
幸運だったのは、転職後も橋の仕事に携われていること。同じ経歴から水道・下水道など他分野に配属された人もいますからね。今は出先の事務所にいますが、工事課は若いエリート中心の課で、僕がいる補修課は中途など経験豊富なおじさんが多い印象です。そこで担当エリアの橋を調査したり、必要な補修・補強の設計や工事の発注などをしています。
さらに出先の出張所では住民からの声を集めて現場で対応しています。「橋の上に大きな水たまりができている」「橋の継ぎ目でガタンと騒音・振動がある」「橋を自転車で渡ったら、柵の隙間から下が見えて怖い」などです。この出張所と連携して、住民の声を反映できるよう努力しています。そうそう補修課で橋梁を担当しているのは6人ですが、そのうちなんと3人が前職の同僚。奇跡的な偶然なのですが、緊張感のない転職です(笑)。
疎遠になっていた同級生とも会えるのがいい
―そんなに前職の人がいるとは、驚きですね。葉玉君はいろいろな趣味もあるとか。
山歩きは5年ぐらい続けています。もともとは山にドライブに出かけていたのですが、母の山歩きにも影響されて始めました。昨年2017年に、東京都の最高峰で埼玉・山梨との県境にある雲取山という2017mの山に登りました。夜中の3時に家を出て、6時から15時まで9時間・20km歩いて、帰宅したのは20時。日帰りハイキングの限界だと思うけれど、いまは年1回雲取山に登るのを目標にしたいと思っています。
アイドル・ももいろクローバーZのライブ参戦も趣味です。深夜にテレビで観たライブ映像で、メンバーもファンもすごく楽しそうだったのが印象的で、国立競技場大会に同僚と一緒に行ったのが最初です。ただ同僚は嫁から禁止令がでたので、今は一人でライブに行っています。今月の東京ドームでの10周年ライブもチケットがとれたので行きますよ。
―最後に同級生へのメッセージをお願いします。
卒業してから30年後に幹事があるっていうのは、疎遠になっていた友達と会えるいい機会と思っています。最近、同級生と集まる機会がありますが、2、3年生で男クラ、しかも隔離教室だった僕は、やっと女子の同級生とつながれたなとうれしいです(笑)。関東誠鏡会の幹事はちょうど東京オリンピックと重なりますので、いろいろと大変そうかな。僕も何かの形で役に立ちたい。みんなで楽しくわいわいやれたらいいですね。
―今日は葉玉君の半生を聞くことができ、楽しかったです。ありがとうございました。
(取材日2018年5月13日、御茶ノ水にて)
取材/松岡佳子・福山智子
写真/松岡佳子
文/福山智子
0コメント