MRとして、無我夢中でしたが、 最近になって、心境の変化を感じます

今回の取材は、横浜に出張で来ていた澤田くんが熊本に帰る直前の羽田空港で行われました。スーツ姿で現れた澤田くんはできるビジネスマンのオーラ―をまとったナイスガイ。包み隠さず、ありのままを語ってくれて、あっという間の3時間でした。そんな澤田くんの半生に迫ります。

澤田安則くん

八高時代は1年3組、2年2組、3年9組、バスケットボール部。立命館大学に進学後、製薬会社にMR(医薬情報担当者)として就職。現在に至る。現在は熊本在住だが、福岡市に転勤予定。
 ※もちろん取材はため口でおこなされましたが、記事にするにあたって口調を変更しています。ご了承ください。


高校時代は4時半起きで、片道2時間半かけて通学する毎日

―澤田くんはバスケ部でしたね。振り返るとどんな高校時代でしたか。
部活と学校と通学でほとんどの時間が過ぎたように思います。岡垣から通っていたので、朝課外のために4時半起床、家を5時にでて、学校は7時半到着という片道2時間半の通学でした。部活も7時ごろまであって、その帰りにつる商店へ寄り道して、岡垣の自宅には夜の10時に帰るような生活。勉強する時間はほとんどなく、疲れ切っていたので、授業でも居眠りをするような毎日でした。
―聞くだけで、ハードさが伝わります…。澤田くんは立命館大出身ですが、高校の勉強はどうでしたか。
実は指定校推薦だったんです。1年生のときから、国公立大学の公募推薦で行くと決めていました。内申点を取るために、部活も休みの定期テスト期間は猛勉強しました。テスト範囲は決まっていたので、とにかく片っ端から暗記。おかげで通知表はよかったですよ。
3年生のある日、進路指導の国領先生に呼ばれて「立命館大学の指定校推薦があるけれど、受けてみないか」と。国公立進学にも未練はありましたが、指定校推薦イコール合格なので、結局その提案を受けたのです。
 

ホテルでのバイトにのめりこんで、就職まで考えました

―当初の目的通り推薦で進学するなんて、芯の強さを感じますね。大学生活はどうでしたか。
もう、4年間バイト漬け。京都のあるホテル専属で配膳の仕事をしていました。結婚式、宴会、レストラン、ルームサービスも担当しました。そうそう、ルームサービスでは、有名女優や歌舞伎役者、元首相、未来の首相などの政治家の部屋に行くこともあり刺激的でしたね。アルバイトでしたが、責任ある仕事を任されて、やりがいを感じていましたので、就職もこのホテルにしようと思っていたほどです。ただ、土日に休めないことや給料面などで、一般の就職に切り替えました。
医療業界を選んだのは、小さい頃、医者になりたいと思っていたのと、作業療法士の兄の影響ですね。製薬会社に入社し、MRとして、僕の社会人はスタートしました。


個人の接待費の予算がなんと月100万円!

―MRには「夜討ち、朝駆け」のイメージがありますが…。
まさにそう(笑)!机上研修を半年ほど受けて、福岡に1年、北九州に1年半、それから長崎に配属になりました。この長崎からMRとして独り立ちしましたが、僕の接待予算が、月に100万円!しかも予算をすべて使い切らないと評価されないんです。必死でしたね。あの頃は接待とゴルフだけで、月に25回、夜の接待はほぼ連日でしたね。
そんな接待漬けの中で、夜討ち朝駆け営業。アプローチ中のお医者様には、出勤と帰りの時間を狙って関係性を構築していきます。肉体的にも精神的にもハードな生活でした。たまに早く帰っても、お医者様から電話があるとすぐかけつけるんです。プライベートはなかったですね。だから今、偉くなっているMRはたいがい病気になってます(笑)。
でも今は接待はほとんどありません。大きく影響したのが、96~98年に起きた薬害エイズや大蔵省接待などの官僚による汚職事件。これ以降、公務員の接待が禁止になり、公立病院への接待がなくなりました。次第に医薬業界の接待自体が減りましたね。ただ、夜討ち朝駆けの営業スタイルだけは今も健在で、部下と共に朝7:00頃に病院に入り、日中は別の病院の営業回り、夜はお医者様の退社時間に合わせて接触しています。


相手の気持ちを汲みとること、ブレないこと

―接待の予算には本当にビックリですし、本当に大変な仕事をしてきたのですね。今はどんな立場で仕事をしていますか。
マネジメント業務が中心で、今のメンバーは去年の新入社員から50代まで7人です。
僕は同期の中では最も早く、34歳でマネージャーになりましたが、本当に辛かった。僕の母より年上のメンバーが3人もいて、どう向き合っていけばいいのか分からないし、若いメンバーの育成も課題だし、売上数字のプレッシャーはのしかかってくるし、無我夢中でした。メンバーの個性に合わせて向き合うことを心がけてきましたが、売上数字に個性云々などとはいっていられません。気づいたら、僕は相当に厳しいマネージャーとしてのウワサが全国の営業所に広まっていました。
僕が鹿児島にいるとき、千葉から転勤になった若い女性がいたのですが、「あの澤田さんの下で働くのはイヤ」だといって、異動初日から2日間寝込んだんですよ。でも後になって、「実際、働いてみたらたいしたことなかった」って言ってくれました。彼女はとても優秀で、営業所をけん引する活躍をしてくれました。
―仕事の鬼というイメージだったんですかね(笑)。仕事をする上で大事にしていることってありますか。
仕事に限らないかもしれませんが、相手の気持ちを汲みとるということでしょうか。自分が間違っていたら、部下にも真摯に謝りますし、上にも自分の意見をぶつけます。ブレない自分も大事にしていることですね。
今回の横浜出張でかつての部下たちが「飲みましょう!」って声をかけてくれて、昨日中華街で飲みました。こうやって後に元メンバーが誘ってくれることが、自分の評価のバロメーターだと思っているので、純粋にうれしいですね。

 

離婚を経験し、素の自分に戻れました

―それはきっと澤田くんの厳しさには愛情があるからなんでしょうね。プライベートはどうですか。
僕はバツイチです。26歳で結婚し、子供が2人産まれました。15年の結婚生活を経て、僕が家をでて、それから実際に離婚するまでに4年かかりました。その間、裁判所を交えてドロドロした話し合いがあり、精神的に参りましたね。仕事以外で一切誰にも会いたくなくて、家に閉じこもっていました。
ただ、離婚をきっかけに僕の考え方に大きな変化がありました。それは自分が本当にやりたいことをやらんといかん、ってこと。それまでの僕は、仕事で稼ぎたい、出世したい、認められたいという気持ちが非常に強くて、「何歳までにこの役職につくためには、今何をすればいいか」ということに支配されていました。でも正直そんな自分に疲れていたんですね。そんな気持ちがなくなり、心が自由になったので、今は素のままで仕事ができています。人のために何かしてあげたい、という気持ちの変化もうまれました。
―そうだったんですね、辛い経験だったかもしれませんが、いい意味での転機になったんですね。澤田くんは北九州の幹事メンバーでもありますね。
八高が好きという気持ちは当時、ありませんでしたし、高校時代の友人ともほとんどつながっていませんでした。数年前にはじめたFacebookがきっかけで、数名の同級生から友達申請が届き、初めて同窓会に参加したんです。昔から、輪の中に入っていくのが本当に苦手で、参加を決めたものの「やっぱ、ヤだな」って思っていました(笑)。行ってみたら、とても居心地がよくて、めちゃめちゃ楽しかった。その後、山崎くんに誘われ、幹事メンバーに加わりました。
きっと僕のように一歩を踏み出すのに、躊躇している同級生は多いんじゃないですかね。その一歩さえ踏み出せば、八高在校時には話したことない同級生とかけがえのない時間が過ごせると伝えたいです。卒業して30年経って、僕は、初めて八高生で良かったと実感していますから。
―澤田くんのメッセージを読んで、参加してくれる人が増えるといいですね。今日は楽しい時間をありがとうございました。
(取材日2019年6月29日/羽田空港にて) 
 取材/福山智子、松岡佳子
写真/松岡佳子
文/福山智子


福岡県立八幡高校42期同期会―1990年3月卒業ー

福岡県立八幡高校を1990年3月に卒業した同級生のためのWEBサイト。2019年から2024年まで5年に渡って私たちの学年が八幡高校のOB総会である誠鏡会の幹事を務めます。2019年11月は北九州開催、2020年8月は東京開催…と私たちの幹事年は続きます。先輩たちは「幹事に参加するのは本当に嫌だったんだけど、本当に楽しかった」と。多くの同級生とつながることを願っています。

0コメント

  • 1000 / 1000