高校時代からの夢を叶え 国際線のCAになった本ちゃん
今回の取材は、とびきり華やかな美少女で、男女問わず、みんなの胸をキュンキュンさせていた本田純子さん、本ちゃんです。28年経っても、変わらない美貌に思わず「やっぱ、かわいいっ」とため息がもれてしまいました。高校時代からの夢を叶えた本ちゃんの半生を紐解いていきます。
※もちろん取材はため口で行われましたが、記事にするにあたって口調を変更しています。ご了承ください。
本田純子さん
(現在は宮本純子さん)八高時代は1年6組、2年6組、3年10組。高校卒業後、西南女学院短期大学へ。92年に国内の航空会社にCAとして就職し、17年空を飛び続ける。現在は外資系医療機器メーカーで翻訳などに従事。家族は夫と中学生、小学生の息子2人。東京都在住。
化学の教科書は開きもしなかった高校時代
―本田さんの高校時代の思い出を聞かせてください。
私は帰宅部だったのですが、学校のチャイムが終わると、誰よりも早く学校をでて、七條の電停まで急いでました。誰もいない電停に着きたくて、クラスの友達と「今日も一番乗りだったね!」と喜びを分かち合っていました。
文系だった私は「化学は必要ない」と教科書すら開きませんでした。試験前になっても化学はそっちのけでしたので、当然、赤点をとってしまいます。追試の前には、先生から問題と解答を事前に渡されて「とにかく丸暗記してこい」と言われたのに、その暗記すらやらない。結果、追試も落ちてしまって(笑)。すると化学の先生が「ビーカーを1つ洗ったら1点あげよう」と提案してくれて、進級に必要な40点のために、40個のビーカーを洗ったんですよ。
―そんなことがあったなんて(笑)。本田さんは当時からCA(キャビンアテンダント)を目指してましたね。
そうですね、中学生のときからCAを目指していました。父が飛行機好きで、小さいころ、空港に飛行機を見に行ったりしていました。私は父のことが大好きだったので、影響を受けたんでしょうね。
高校3年生の3学期って、実質的に自由登校でしたよね。だから約1ヶ月半、サンフランシスコに留学していました。わずかな期間なのに10kgも太ってしまって(笑)。英語を身につけずに、肉を身につけて帰ってきたと笑われました。
狭き門のCAに合格し、搭乗するまで
―高校卒業してから、就職するまでのことを教えてください。
西南学院短大に進学して、昼間は短大、夜は戸畑にあったCAの学校に17:30~21:30までみっちり学びました。短大はカリキュラムを2年に凝縮しているので、勉強も大変。CAの学校では20名ほどのCAを目指す生徒がいて、面接の練習や一般常識、英会話、立ち振る舞いなどを学んでいました。この2年間は、勉強漬け。すごくがんばりました。
―本田さんがCAになった当時は、今みたいにたくさんの航空会社なかったですよね。相当大変だったんじゃないですか。
私は一般的な就職活動はせず、航空会社1社しか受けませんでした。1次試験は筆記、2次は筆記と面接です。3次からは東京に移動し、ホテルに3日間泊まって、外国人コミュニケーションなど、さまざまな試験を受けました。中でも体力テストでは、何周も走った後、踏み台昇降を延々とさせられました。疲れた時にも笑顔でいられるかを見られているんですね。ぜいぜいぜいと息苦しいのに全員が超笑顔という気持ちの悪い状況でしたね(笑)。
合格することができ、国際線に配属が決まったときは、本当にうれしかったです。
―そんなに狭き門に合格するなんて、すごいですね。入社した後は訓練ですか。
訓練所は同期200人全員は対応できないので、時期をずらして訓練を開始します。私は一番若手だったので、訓練を開始したのは9月からです。東京での基礎訓練や成田で地上職を経験した後、慰霊登山へ。そして訓練所に入所しました。
飛行機を知り、座席やファーストクラスへの接客などを修得します。そして訓練でもっとも重要で時間を割くのが、非常時の対応です。「私たちはサービス要員 兼 保安要員」ということを叩き込まれました。ジャンボジェットの定員550人を、90秒で全員脱出させるのです。脱出専用の訓練機があり、あらゆる事態を想定した訓練をひたすら繰り返しました。
完全に縦社会のCAの世界で経験を積む
―新人の頃のフライトはどうでしたか。
完全に縦社会の世界で、相手が1期でも先輩だと、答えていいのは「はい。」と「申し訳ございません。」だけと言われてました。先輩に呼ばれたら、メモを取りながら直立不動で聞きます。エプロンの色にもルールがあって、ベテランCAは汚れないから、白のエプロン。先輩から順にエプロンの色を選んで、新人は先輩たちの色を確認して、誰もつけていない色を選んでいました。
初フライトでは先輩が忙しく動き回っている中で、何をしたらいいか分からず、ギャレイ(キッチン)の拭き掃除しかできなかったんです。すると先輩にドアサイドに連れて行かれ、「邪魔だから、ここで降りてくれる?」と冷たく言われました。その時はシベリア上空で、外の気温計は-50度を指していたので、余計に怖かったのを覚えています。ただ、先輩たちからの叱咤があったからこそ、私は成長できました。
―理不尽に怒られているのかと思いましたが、違うんですか。
私たちはいつ非常事態が起こっても対応できるように考えて、接客しています。例えばタービュランス、これは乱気流のことですが、まったく予測がつかないものがあります。大きいものだと数百メートルを一気に下降。シートベルトをしていなければ天井に叩きつけられ、命の危険を伴います。ですから機内の接客をのんびりやっていては、保安要員として失格。先輩たちの怒りにはこうした背景があったのです。
機内で経験した数々の珍事件とは
―叱られても前向きな本田さんはステキですね。では機内でのエピソードがあれば、聞かせてください。
たくさんありすぎて(笑)。私たちが気を付けて見ているのは、機内で何も召し上がらず、何も口にされないお客様です。いわゆる運び屋には、薬物などをパッケージしたものを体内に飲み込んで後で取り出せるように、歯に糸をかけているケースがあります。おかしいなと思ったら、決められたルートで連絡を入れます。
お相撲さんが搭乗することもありますが、こうした方は普通、前日から絶飲絶食して搭乗されます。機内のお手洗いは小さいので、入れないからです。でも、どうしてもお手洗いに行きたいとお願いされたときは、入られる時も出られる時も、お肉の出し入れを手伝い、ご使用中は必死でドアを押さえていました(笑)。大きな方は搭乗前に「非常時は一番最後に逃げます」という誓約書への記入も必要です。万が一の際に通路をふさがないためなんですよ。
ある国の元大統領は日本の航空会社だから、靴を脱ぐものだと思ってらっしゃって、靴を手にもってにこやかに挨拶をしてくださり、かわいらしかったですね(笑)
―すごくおもしろくて、興味深いお話ばかりですね。怖かったことはありますか。
先ほどの乱気流の話ですが、機内でお父さんが赤ちゃんを抱いていたら、急に乱気流に巻き込まれ、抱いていた赤ちゃんが腕からスポンと抜けて天井にぶつかり、またお父さんの腕に収まりました。幸いなことに赤ちゃんにケガはなく、キョトンとしていました。
一番怖かったのはシンガポールに着陸する直前で雷に打たれたことです。機体には避雷針はついているのですが、キャビンの窓が真っ赤になり、火が見えて、死ぬなぁって思いましたね。
また、海外で亡くなった方のご遺体を引き取りに渡航されるご家族への接客は、いつも以上の細やかな気配りが必要ですね。
難しい子育てと仕事との両立
―本田さんはCAをどのぐらい経験したのですか。
結婚後も続けていて、長男を出産するときに産休・育休を3年取得後、息子が3歳のときに復帰しました。子供がいるということで、香港便往復など日帰りの便に振り分けていただいたんです。
しかし、朝5:00に会社の車が迎えに来て、フライトをこなして、家に帰るのは夜23:00過ぎ。起きている長男には会えません。夫も仕事が忙しかったので、ベビーシッターさんにお願いしていました。でも、長男がすごく淋しがって、だんだんご飯も食べなくなって、可哀そうでした。
約1年がんばったけど、限界でしたね。その頃、次男の妊娠が分かり、一度退職することを決意しました。
私の同期にはまだ飛んでいる人もいて、再雇用のお話もいただきます。すごく戻りたいですが、下の子はまだ小3ですし、もう少し先になりそうです。
―仕事と子育ての問題はほんと難しいですね。今はどうしているんですか。
今はドイツの医療機器メーカーでアシスタントをしています。パワーポイントを使って資料を作ったり、翻訳したり。職場も近いので助かっています。
次男が本気の野球チームに所属しているので、土日は私もベンチコートを着込んで野球漬けです(笑)。遠征も多いので、チームの何人かを私の車に乗せて、埼玉、茨城などにも行ってますよ。
―ベンチコートを着た本田さんは想像できませんね(笑)。では、最後に同級生や北九州への思いをお願いします。
八高ファイトですね(笑)!高校時代の友達と高校のときの話をするとあっという間にその時代に戻れて、楽しいです。仕事で方言を徹底的に矯正されて、北九州弁はしゃべれなくなったけれど、今も地元が大好きです。毎年、春、夏、お正月に帰省しています。同窓会で皆さんとお会いできるのを楽しみにしています!
―高校時代も、CA時代も興味をそそる楽しい小ネタ満載のお話し、楽しかったです。ありがとうございました。
(取材日2018年1月20日/目黒にて)
取材/松岡佳子、福山智子
写真/松岡佳子
文/福山智子 (※文中のペンを持っている写真は福山の手元です)
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