ちょっとおかしな方向に成長しちゃいましたが、 こう見えて僕は…
今日の取材は、高校時代は甘いマスクで寡黙な王子様キャラだった近藤直樹くん。今回再会した時には、キャラクターが随分と変わっていました。高層ビルがそびえたつ品川にて、近藤くんの高校卒業後の半生に何があったのか、迫ってみたいと思います。
※もちろん取材はため口で行われましたが、記事にするにあたって口調を変更しています。ご了承ください。
近藤直樹くん
八高時代は1年4組(?)、2年1組、3年10組。ラグビー部。高校卒業後、一浪して横浜国立大学へ。95年に大手証券会社に就職し、現在に至る。2004年に結婚、家族は妻とチワワ1匹、東京都在住。
高校時代、実は全力でカッコつけてました
―高校時代はラグビー部ですよね。どうしてラグビー部に入ろうと思ったのですか。
中学生のときはバリバリの帰宅部でした(笑)。だから、サッカーや野球だと、中学からやって いるヤツにはかなわないじゃないですか。ラグビーだったら高校からはじめるヤツばっかりだか ら、何とかなるんじゃないか、ってね。高校時代は部活一色でしたが、チームはあまり強くなかったですね。 マネージャーには、汚い部室を掃除してもらったり、泥だらけのジャージを洗濯してもらったり、下働きをさせて、すみませんでした。
―高校時代は硬派で無口なイケメンだったのに、今は随分とチャーミングなキャラになっていますが(笑)、高校時代は意識してキャラを作っていたのでしょうか。
あの頃はもともとそんなにおしゃべりなタイプではなかったと思います。ただ、男子高校生でしたから、モテたい、カッコつけたいという気持ちはかなりありました。だから、全力でカッコつけてました(笑)。毎朝、髪を入念にセットして、学ランの丈やズボンの太さにもこだわってたんです。また「男たるものあんまりベラベラしゃべるもんじゃない!」と思ってたところもあり、あえて硬派なキャラクターを装っていたのかもしれません。
大学時代の僕の毎日を親が知ったら泣きますね
―近藤くんは横浜国立大学出身ですよね。高校のとき、勉強はできたんでしょうか。
部活を引退してから本腰を入れたのですが、なんと急に成績があがったんです。こう見えて、僕は「顔で笑って、心で歯をくいしばっている(多少努力をするという意味です)」タイプなんです。高校時代を例にとると、試験前に「全然勉強していないよー」といいつつ、コッソリ勉強しているイヤなヤツだったかもしれませんね(笑)。
しかし、卒業後は結局、北九州予備校に一年間通って、横浜国立大学に進学しました。福岡にもたくさんの大学がありましたが、とにかく家を出てみたかったのと、関東に憧れがあり、特に「横浜」という響きが心地よくて(笑)、学部は受かればどこでもいいやと。随分、軽薄な動機で大学にいったことになります。
―大学で打ちこんだことはありますか。
打ちこんだ部活やサークルもなく、バイトとパチンコといったやや自堕落な生活をしていました。あの頃の僕を親が知ったら泣いちゃうと思います。バイトは飲食店や塾の先生、キャバ嬢のスカウトもやったことがあります。塾では勝手に休講にしたのがバレて、クビになりました。キャバ嬢のスカウトですが、街を歩いていたら、逆にキャバ嬢に僕がスカウトされたのです。「じゃ、仕事教えるから、行こう!」と、その道の先輩についていくと、次々に女の子に声をかけていくんです。上京したばかりだった僕は「これは絶対ムリだ!」と3日で辞めてしまいました。あー、自分で話してて「オレって薄っぺらー」と自嘲したくなりました(笑)。
カッコいいと思ってた証券マンの現実
―就職活動したころは、バブルが崩壊した超就職氷河期でしたよね。証券会社も厳しかったと思うのですが、なぜ証券会社を選んだのでしょう。
就職活動のときも特にやりたいこともなく、深く考えることもなく、イメージでいろんな会社を受けていました。金融系、商社、メーカーなどです。受かったのが、今の証券会社と重工業メーカー。今、思えば重工業メーカーをなぜ選ばなかったのかと思いますが、今の会社はカッコいいところばっかり見せてくれたんです。ニュースでしか見たことのないトレーディングルームや超高層階にあるガラス張りオフィスなどです。一方、重工業メーカーは天井の低いオフィスで黙々と作業しているところを見学しました。どうしても根がミーハーなもんで、証券会社を選んでしまいました。
―就職してからはどんな仕事をしたのでしょうか。
約10年、営業所で証券営業をしていました。お客様は主に個人の富裕層と一部法人です。証券営業って、本当に泥くさいんです。配属されてからは、リストにそってひたすら新規電話営業の毎日。帰ってくるのはほぼ、嫌そうな、迷惑そうな反応です。個人宅への飛び込み営業もやりました。「こんにちは、〇〇証券の近藤です!」と言われても、相手も困惑しますよね。営業トークだけはうまくなりましたが、いやーほんと辛かったです。ノルマもすごくて、僕の数字のために親や親戚、知り合いに頼み込んでお客さんになってもらいました。そのせいで関係性がギスギスし、今にして思うと申し訳ないこともたくさんしました。他の社員も同じような思いをしていたので、300人いた同期が、気づけば半分になっていました。
―そんなに大変な思いをしても、辞めなかったのはなぜですか。
辞める勇気さえなかったのかもしれません。だから、2、3年目のときには「絶対、証券営業から脱出してやる!」と強く決心していました。そのために必要な資格をコツコツ取得したんです。営業中にも資格の勉強をしていたので、どうしても営業成績は低迷してしまいます。でも成績は怒られればいいやと割り切って、未来の自分に投資をしていました。国際公認投資アナリストなどのいくつかの資格が今の僕につながっています。
ものすごく変わった金融職人と仕事をしています
―証券営業から現在の運用セクションに移るまでには、どんなことがあったのでしょう。
たまに社内公募制で他部署が募集をするんですが、資格取得と並行しながら、何年も手を上げ続けました。32、3歳でようやく一番やりたかった運用セクションに異動することができました。証券営業から本社に異動できるのはまれなケースなので、僕はかなりラッキーでした。
運用セクションでは、損がでないように、利益がでるように全力を尽くしますが、勝率は100%ではありません。怒ったお客さんに「夜道を歩くときには注意しろ!」と脅されたこともありますよ。
―現在の肩書は副部長 兼 運用課長とありますが、どんな仕事をしていますか?
一応、一部の運用セクションにおける責任者ということになっていますが、実際は「職人(ファンドマネージャー)」 兼 現場監督ですね。この「職人」にはびっくりするほど人間関係が苦手だったり、偏屈だったりする人が多いんです。お風呂も入らない、机周辺がゴミ屋敷、人間とはほぼしゃべらないなど…。僕は「現場監督」として、こうした職人と社内の他部署との橋渡しをしています。
組織上は職人の方々は僕の部下になっていますが、年収でいうと、僕の1.5倍はもらっている人もいますからね(笑)。偏屈だけど、優秀ですごい人ばかりなんです。例えば、世界で1000人以上いるファンドマネージャーが運用競争して、その運用成績で順位をつけるんですね。金融商品の種類は1000~2000ほどあり、複雑な値動きをします。僕の部署の職人はこの運用競争のとあるカテゴリーで世界で1位をとったこともあります。これってものすごいことなんです。学生時代からファンドマネージャーを目指していたらしく、今は大好きな仕事に夢中で、それ以外には無頓着なんでしょうね。
僕は現場監督として「毎朝、9時に来てくださいね」とか「ゴミは捨ててくださいね」と言っていますが、聞いちゃくれません(笑)。だから、僕がそのゴミを捨てたりしています。
―そうなんですね(笑)。人がいい近藤くんらしいですね。最近ハマっていることはありますか。
チャリンコですね。ぴちぴちのウエアを着て、エイリアンヘルメットかぶって、ロードバイク仲間と淡路島などに泊りで走りにいっています。近場だと奥多摩などですね。泊りがけで年に2~4回出かけてしまうので、奥さんには文句を言われますが、最近はあきらめているようです。
―体型も維持していてて、すごいですね。では最後に同級生へのメッセージをお願いします。
20年近く高校時代の同級生とは疎遠になっていたのですが、昨年末から再び交流できる機会に恵まれました。みなさんが、それぞれの場所で頑張っていながら、高校時代と変わらない気持ちも持ち続け、28年ぶりでも友人として温かく接してくれることがうれしく、かつ誇りに思えます。関東にはたくさんの同級生がいるようなので、機会があればぜひ集まりたいです。ただ、ちょっと記憶があいまいだったり、はじめて話すような人もいるので、卒業アルバムで予習しておきたいですね(笑)。
――近藤くんの成長過程を聞くことができて、とっても面白かったです。今日はお忙しいところありがとうございました。
(取材日2018年1月20日/品川にて)
取材/松岡佳子・福山智子
写真/松岡佳子(自転車の写真は近藤くん提供)
文/福山智子
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