振り返ってみると、つくづく人との縁に導かれた 人生だなって思うんです。
今回の取材は、顔は清楚な美人なのに、とってもグラマラスで、体育のプールでは女子の目も釘付けにした高田美穂ちゃん、タカです。今もスタイルの良さは変わらず、そのきれいな脚にため息をつきました。高校卒業後のタカの人生を語ってもらいます。
※もちろん取材はため口で行われましたが、記事にするにあたって口調を変更しています。ご了承ください。
高田美穂さん
(現在は佐藤美穂さん)八高時代は1年5組、2年11組、3年11組。高校卒業後、一浪して、福岡女学院大学日本語日本文化学科へ。大学時代のアルバイト先の塾に就職。現在は不動産会社の営業に従事している。東京都在住。夫と2人暮らし。
先生への憧れをバネに国語を猛勉強
―高田さんの高校時代の思い出を聞かせてください。
そうですね、私は帰宅部でしたから、部活の思い出もありません。さらに地獄坂を降りてちょっと曲がったところが家でしたので(笑)、家と学校を往復する毎日でした。
ただ、国語の新谷先生に出会って、「あぁ、すてきな先生だな」と憧れを抱くようになりました。先生に認められたい一心で、国語だけは猛勉強しました。実は一度、英語で赤点をとっちゃって(笑)、「女子で赤点は高田一人だけだぞ」と言われたときも、国語だけは偏差値70を超えてたんです。憧れが勉強する動機になって、いつしか私の武器になりました。
高校時代の将来の夢は、国語の先生になること。現役で短大には受かっていたんですが、それでは国語の先生にはなれない。両親には、どうしても先生になりたいので再挑戦させてくれってお願いして、河合塾に1年間通いました。
就職先が倒産した後、知り合いに連れて行かれた先とは
―その後、高田さんは福岡女学院大学に入学しましたよね。大学時代はどんなことに取り組みましたか。
大学時代は一人暮らしで、塾のアルバイトとして、国語を教えていました。対象は小学生や中学生ですね。念願の国語の先生になれて、とても楽しかったです。急に国語の成績が上がる生徒さんがいたり、中学生の受験のサポートも担当し、大きなやりがいを感じていました。
大学卒業後、アルバイト先の塾に誘われ、そのまま就職。5教室ぐらい運営していましたし、生徒数も多かったので、安心していました。しかし、正社員になってみると、分からなかった内情が分かってきました。既に経営は傾いていて、自転車操業の資金繰りだったのです。私は辞職を申し出たのですが、せめて冬期講習までと頼まれ、引き受けました。が、年明けすぐに倒産して、解雇されました。就職した年のことです。
―それは大変でしたね。
確かに、そうなんですが、人の縁を感じるできごとがありました。最初に私を塾に紹介してくれた人に辞めることを報告したんです。すると「履歴書を持って来い」と言われて、不思議に思いながら履歴書を用意しました。車に乗せられ、着いた先は石材店。いきなり面接が始まり、給料はいくら欲しいかと聞かれ、金額を答えて、そのまま内定です(笑)。私は石材店に転職することになりました。
―えっ!すごい話ですね。それを受け入れてしまう高田さんの柔軟性にも驚きます。
私の仕事は専用のソフトを使って墓石に刻む文字をデザインすること。中小の石材店でしたが、石材店は現金払いの世界で、バブル崩壊後も羽振りが良く、ボーナスでは札束の厚みで封筒が立つ人もいました。会社のお金で全員、海外へ社員旅行に連れて行ってくれましたが、旅行中も一切、お金を使うことはありませんでした。イギリスやフランス、イタリアなど、この会社でいろんな経験をさせてもらいました。
いわゆる典型的なオーナー社長でしたが、社員の人間関係はとっても良く、今でも一緒に飲みに行くほどです。当時はほぼ毎日みんなで飲みに行って、愚痴をいったり、笑ったり。ただ、4年ぐらい経つと転職を考えるようになりました。
まったくの畑違いな石材店の世界でおもしろさを見出す
―人間関係も良くて、お給料も良かったのに、なぜ辞めようと思ったのですか。
会社の近くに借りてくれた寮と会社の往復の毎日、飲み会も毎日、繁忙期は夜の10時まで仕事をしているうちに、ふとこんな生活でいいのか、という疑問をもつようになったんです。
私はDODAを買って、転職先を探しました。結局は次の転職先も石材店(笑)。墓石の文字デザインで使っていたソフト経験が活かせることが決め手でした。前の職場と同じくオーナー企業でしたが、あまりワンマンではなく、創立300年と歴史もあって、安定していました。28歳から、15年勤めましたが、こんなに長く働くとは思いませんでした。
―そんなに長く働いた理由はなんでしょうか。
墓石の文字のデザインから始めて、次第に営業を担当するようになりました。営業といっても商材が墓石ですから、基本的にお客様からのコンタクトを待つ反響営業。例えば、市営の霊園は希望者が多いので抽選になるのですが、当選した場合は3年以内に墓石を建てるというルールがあります。ですから、霊園の近くの石材店ではお客様がコンスタントにいらっしゃいます。土日は多少込むこともありますが、平日は1日に1、2組ですので、じっくりと向き合うことができます。モノを売るというより、ご家族の人生や想いに寄り添うことが大事な仕事。これが私には合っていました。
印象に残っているのは、軽自動車でいらっしゃった老夫婦です。墓石の営業では、お客様が乗ってきた車と同じ値段の墓石が売れるというセオリーがあり、私は安い価格帯の墓石を提案するつもりでした。けれどそのご夫婦は「一番高い墓石はどれですか」というのです。私は300万円前後の墓石をご案内しました。後で知ったのですが、奥さまは当時、糖尿病を患っていて、しばらくしてお亡くなりになったそうです。後日、旦那様と息子さんでお見えになり、奥さまが気に入っていた一番高い墓石を契約してくださいました。実はそのご夫婦は高級料亭を経営する社長さんだったのです。なぜか私のことも気に入っていただいて、深川製磁の形見分けをいただきました。
そうそう、大失敗もしましたよ。墓石の「〇〇家之墓」という文字は職人さんが彫ったり、機械を設定して自動で彫ったりするんです。小さな会社でしたから、私も機械彫りを手伝ったことがありますが、設定でX・Y・Z軸を間違えてしまって、彫り始めたら墓石に深く穴が開いちゃって、御影石を一本ダメにしてしまいました(笑)。そんなときでも、社長は笑って許してくれるような、温かな社風でした。
夫と出会ったのも人のつながりから
―高田さんは新婚さんですよね、出会ったきっかけは何ですか。
夫は13歳年上ですが、出会ったのも人とのつながりでした。石材事務所にいるときに「お地蔵様の杖がないので作ってほしい」というお電話がありました。他の社員は外出中で「私はあまり詳しくないですが、それでも良ければ…」と久留米まで出向いて対応しました。このお客様には神社への狛犬の奉納の契約もいただくなど、懇意にしてくださいました。私のことも心配して、信頼できる占い師を紹介していただいたんです。この占い師がのちに私と夫のキューピッドになりました。私が33歳くらいのことです。
だんだんとこの占いの先生とは個人的に仲良くなって、飲みに行くようになりました。占いの先生は今の夫ともすでに知り合いだったのですが、私と夫は出会うことなく、約10年が経過しました。
ある日「いい人がいるから紹介したい」と占いの先生から言わたのです。その後、共通の友人を含めて5人で飲みに行ったのがきっかけで、今の夫と付き合うように。家庭環境が似ているなど話も合って、一年後に結婚しました。
30代のときに13歳年上の男性を紹介されても、きっと会う気になれなかったと思いますが、私が40代だったからすんなり受け入れられましたし、両親も了承してくれました。「お地蔵様の杖」の連絡のときに別の社員がいたら、私と夫は出会うことはありません。人生とは不思議なものだなと感じますね。
東京で未経験の不動産営業の世界へ
―高田さんは今は東京で働いていますね。何のお仕事をしているのですか。
夫が東京へ転勤になったので、私は石材店を退職し、初めて福岡からでました。実は宅地建物取引士の資格を持っており、夫の知り合いの紹介で不動産会社に転職。仕事は投資用マンションやアパートの提案です。毎日、電話での新規開拓で、辛くて辞めたくて仕方がなかったです。でも、不動産営業ができれば、どんな営業でもできると自分に言い聞かせてきました。同じ不動産業界で転職もして、今も頑張っています。
日々、いろんな人との出会いがあるのは楽しいですね。契約をいただいたお客様が他のお客様を紹介してくださったり、お見合いパーティーを企画したりして、パートナー探しを手伝ったりしているんですよ。
―関東誠鏡会本部の広報ライターとしても活躍されている高田さんですが、最後に同級生へのメッセージをお願いします。
つくづく人との出会いは大切だなと思うんです。同窓会に来ることで、いろんなつながりが増えて世界が広がります。今は関東誠鏡会の広報のお手伝いをしていますが、夫の定年後は福岡に帰ります。関東にいられるのも約2年。それまでにたくさんの八高の同級生、先輩、後輩をつなげていければと考えています。
―今日のお話しをきいて、高田さんのしなやかさと芯の強さを感じました。お忙しい中ありがとうございました。
(取材日2018年3月18日/蒲田にて)
取材/松岡佳子、福山智子
写真/松岡佳子
文/福山智子
0コメント